
2020年東京五輪で、野球の実施競技への復活に期待が高まっている。野球は前回1964年の東京五輪で公開競技として行われ、戦火で中止となった40年の幻の東京五輪でも“番外競技”に加えられる予定だったことはあまり知られていない。6年後、正式競技として復帰はなるのか。(三浦馨)
64年は開会式翌日の10月11日、神宮球場で日米の大学生選抜同士と、日本の社会人選抜対米大学生選抜の2試合を開催。公開競技のため当時の産経新聞もベタ(1段)記事扱いだが、観衆は約5万人と盛況だった。
米国は「USA」のユニホーム、日本の大学生は駒大(春の大学選手権優勝)、社会人は日本通運(夏の都市対抗優勝)と主体となったチームのユニホームを着用。日通の元マネジャー、渡辺紳六さん(72)によれば資金援助もなく、自前で用意したのだという。
大学生同士は2-2の引き分け。2安打と活躍した中大の末次利光さん(72)=後に巨人=は「米国チームは野球の質が高かった」と振り返る。1点リードの八回から登板した慶大の投手、渡辺泰輔さん(71)=後に南海=は九回走者三塁で投ゴロを一塁へ送球し失点。「思い切ってバックホームすれば」と今も悔やむ。
第2試合は米大学生が3-0で日本の社会人に快勝。この試合の球審を務めた山本英一郎さん(2006年死去)はその後、日本野球連盟会長などの要職に就き、五輪正式種目採用に尽力した。「あの日から山本さんは『野球をいつかは五輪の正式種目に』との思いを抱いたようだ」。同じ試合で三塁塁審だった早大OBの本村政治さん(81)は証言する。
東京五輪は1940年大会の招致に成功したが、戦争激化で開催を返上。当時の組織委員会の報告書(野球殿堂博物館蔵)によれば、野球は番外(公開)競技として神宮球場で行われるはずだった。ちょうど80年後の東京五輪で正式競技復活の可能性が出てきたのは何かの因縁だろうか。
巨人のスカウトとしてアトランタ、シドニー両五輪に足を運んだ末次さんは「五輪に出れば選手の心も周りの環境も大きく変わる。ぜひ復活を」と願っている。