
《1975年のセ・リーグは、夏場まで巨人以外の5チームが首位を入れ替わる大混戦となった。9月なかば、トップに立ったのは創設26年目でまだ優勝のない広島。前年覇者の中日から猛追されたが、シーズン途中にコーチから監督に昇格した古葉竹識さん(77)率いるチームは10月15日、勝つか引き分けで胴上げとなる巨人戦(後楽園)に臨んだ》
--敵地に約9千人の広島ファンが駆けつけた
「ベンチ入りすると、すごい声援と(宮島名物の)しゃもじをたたく音に驚いた。三塁側から右翼席まで広島ファンで埋まっていた」
--五回に1点先制して、そのまま終盤へ
「九回1死一塁、巨人一塁手のワンちゃん(王貞治)がバントはないとみて後ろに守っていた。三塁コーチだった私は次の打者の大下(剛史)に目で合図すると、『自由に打たせてくれないのか』と思ったそうだがすぐに意図を理解して、プッシュバントを決めた。3番のホプキンスが右翼席へ3ランを放ち4-0となった」
◆経営難乗り越え
--初優勝の思いは
「広島は厳しい時代を乗り越えてきた。特に球団の創設時は経営的にも苦しく、先輩たちが球場前にたるを置いて募金を集めたこともあった。そうした思いが頭を駆け巡った」
--相手の長嶋茂雄監督との因縁も深い
「学年は長嶋さんが上だが、同じ昭和11(1936)年生まれでプロ入りも同時。仲のいい夕刊フジの記者の企画で優勝の夜、対談した。巨人は最下位。普通は考えられないが、球界を盛り上げるために引き受けてくれたのではないか。『おめでとう。来年はぜったいうちが勝つからな』と。その通り(巨人は翌76年、77年とリーグ連覇)になった」
--5日後には広島で優勝パレード
「沿道のファンが額に入った遺影をたくさん掲げているのを見て泣けた。チームを熱心に応援して、この日を迎えられなかった肉親にひと目見せてあげたかったのだろう。カープは原爆の大変な被害から立ち上がろうとした市民の心の支えでもあった」
《この年の広島は、日本初の大リーグ出身監督となったジョー・ルーツが指揮していた。チームカラーを“情熱の赤”に一新した「赤ヘル」の生みの親は、判定をめぐる退場騒動をきっかけに球団と対立、開幕からわずか15試合で解任された》
--監督就任を要請されたときは
「3年連続最下位で毎年監督が代わった。『ことし最下位なら私もクビだな』と思ったが、自分の考えやいいたいことを伝えて選手を納得させ、成績を残せなければ仕方ないと。腹をくくって引き受けた」
--ベンチでは柱の陰からみつめる姿が印象的
「あの位置に立てば投手の投げるボールは球種も分かる。打たれたとき、内外野がきちっとした動きをしたかどうかも。ベンチに戻った選手を『あんなプレーをしとったらもう使わんぞ』と、しかるためにもベストポジションだった」
《この年のオールスター第1戦(甲子園)では山本浩二、衣笠祥雄がともに2本塁打。赤ヘル軍団の勢いを印象づけた》
「それまでライバル心もあってあまり話をせず、食事や飲みに行くこともなかった。優勝争いになってから『おれたちがチームを引っ張らなくては』という気持ちを持ってくれた」
◆喜ばれる野球を
--広島での野球生活は長い
「通算24年もカープでやれたのは、社会人時代の濃人渉(のうにんわたる)監督(後に中日、ロッテ監督)のおかげ。『プロは試合に出られてなんぼ。お前がすぐ活躍できるチャンスがあるのは広島だ』と送り出してくれた」
--現在は東京国際大学の監督を務める
「濃人さんに『プロに行ったらファンに喜んでもらえるような野球をしろ』といわれた。今は孫と同じような年齢の選手に『社会に出てから喜んでもらえるような人間に成長しなさい』と教えている」
--広島は昨季、初めてクライマックスシリーズに進出
「初優勝のときは日本シリーズで敗れ、その後チーム3度の日本一でパレードはなかった。去年の広島のOB会では『今は3位に入れば日本一のチャンスもある。パレードできるようがんばれ』と選手を激励した」(取材・構成 三浦馨)
【プロフィル】古葉竹識(こば・たけし) 熊本県出身。済々黌高、専大、社会人の日鉄二瀬を経て1958年、広島入団。攻・走・守そろった内野手として活躍し、64年と68年に盗塁王獲得。63年は巨人・長嶋と首位打者を争ったが、死球で左下あごを骨折して戦線離脱し2厘差の2位に終わった。
70年に南海(現ソフトバンク)へ移籍し、71年引退。南海コーチを経て74年にコーチとして広島復帰。75年途中から監督となり、在籍11年でリーグ優勝4度、日本シリーズ3度制覇。87年から89年は横浜大洋(現DeNA)監督、監督通算873勝。