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トップ営業マンから異色の転身 鎮西・江上監督を直撃 - news15

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2025.05.15|コメント(-)トラックバック(-)

トップ営業マンから異色の転身 鎮西・江上監督を直撃


 23日に登場する鎮西(熊本)の江上寛恭監督(46)は学校職員。いわゆる“請負監督”だ。自身にとっては04年の就任以来、初の甲子園出場になる(鎮西は24年ぶり3回目)。

 鎮西から九産大を経て、本田技研熊本(現ホンダ熊本)に入社。遊撃手として社会人時代には日本代表候補にも選ばれるなど野球エリートの道を歩んだものの、28歳で現役を引退。その後は車のセールスマンとして営業所トップの成績を上げたヤリ手社員だった。異色の経歴を持つ江上監督に、監督就任までの経緯を中心に聞いた。

■野球選手時代は頭を下げたことはなかった

――引退後にサラリーマンに転身したのはなぜですか。

「ずっと野球を続けてきて、高校の時は甲子園でベスト4に入り、大学、社会人でも結果を残してきた。ホンダ1年目の九州予選初戦で、創業者の本田宗一郎の目の前で最高殊勲選手賞と首位打者賞を取ったこともあります。ただ、28歳になっていろいろと考えることがあって、都市対抗が終わったらやめようと覚悟を決めていました」

――選手時代、会社ではどんな仕事をしていたのですか。

「今のホンダ熊本製作所で設備管理の部門にいました。ただ、当時のホンダは一時的な業績不振で、製作所から販売店へ出向する社員が少なくなかった。(自分自身も)野球をやめて、販売店に出向したのです」

――野球選手からいきなり営業マンになり、しかも営業所でトップになったそうですね

「僕がいたのは『クリオ』という高級車を扱うディーラー。野球の時は頭なんて下げたことはなかったけど、営業マンのときは下げっぱなし(笑い)。営業の成績が上がったのは、江上という人間を信頼してもらうことが大事だと考えるようになってからですね。ある社長さんから『俺の車は〈Hマーク〉じゃない。江上の〈Eマーク〉だ』と言っていただいた時は本当にうれしかったです」

■妻には大反対された

――超一流企業で営業成績もいい。将来は安泰だったんじゃないですか?

「出向して6年目が終わる前に、東京本社の営業部門に誘われました。『将来は熊本の販売店の社長になれる』と言ってくれた上司もいました」

――なのに、それを断って母校の監督になった。家族の反応は?

「妻は大反対でした(苦笑い)。ホンダでは大変良い給料を頂いてましたが、監督の収入は半分程度。娘2人を養って、住宅ローンも残っている。妻はそれまで3食昼寝付きだったけど、今はパートに出てもらってます」

■公立校に負けて学校に抗議電話

――それでも監督をやりたかったと。

「上田理事長から『社会に出たときに社会に貢献できる人材を育てて欲しい』と誘っていただき、決心しました。部員には『社会に出て信頼される人間になれ』と常に言っています。教員免許がない僕ですが、OBであることや社会人時代の経験を買ってもらったのだと思います。これまで『甲子園に行ってくれ』と言われたことは一度もありません。(昨夏の)県大会で(前評判の高くない)公立校に負けたときも、何も言われませんでした。学校には抗議の電話が殺到したみたいですけど(苦笑い)。監督になって10年になりますが、(07年には)不祥事で1年間の謹慎を受けたこともあります。あの時は本当にいろいろありました。勉強をさせてもらいました。だからこそ今があると思っています」

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2014.03.25|コメント(-)トラックバック(-)
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