
ソチ・パラリンピック大会第6日の12日、ノルディックスキー距離男子スプリント(1キロ)のフリー立位で岐阜・飛騨神岡高3年の岩本啓吾選手(18)が初出場。障害を意識せずに育ち、2年前に日本代表監督にスカウトされて障害者スキーの世界と出合った。この日は35人中32位で予選落ちとなったが、初の大舞台を終えてすがすがしい笑顔を見せた。
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運命のいたずらのようだった。高校1年の冬、岐阜県スキー連盟の合宿で訪れていた北海道音威子府村。足を引きずって歩いていると、突然目の前に止まった車から男性が出てきて話しかけられた。「君、足に障害あるの。パラリンピックって知ってるかな」。それが始まりだった。
声をかけたのは、この村を訪れていた日本代表の荒井秀樹監督(59)。とりあえず連絡先を交換したが、どこか半信半疑だった。脳性まひで生まれつき両足が不自由だったが、本人にはずっと障害者という自覚がなく、障害者手帳さえ持っていなかった。
それは、母智恵子さん(43)の教育方針があったからだ。双子の弟悠吾さんと岩本選手は未熟児として生まれ、医者から「(障害などの)影響が残るかもしれない」と言われた。幸い弟に障害はなかったが、岩本選手はつかまり立ちも遅く、異常があるのは分かっていた。しかし、母は「障害を認めたらこの子は伸びない。できる、できないは別」と考え、弟と同じように育てた。
岩本選手は小学生になって授業でスキーを始めると、高校でも弟と一緒に、健常者と同じ部活で距離スキーに取り組んだ。「疑うこともなく、みんなと同じだと思っていた」。結果はなかなか出なかったが、健常者と同じハードなメニューをこなし力をつけた。それは間違いなく、ソチの地にたどりつく原動力となったはずだ。
スカウトされたことを智恵子さんに報告した後、病院で診断を受け、障害者手帳も取った。その後は海外遠征の日本代表にも選ばれ、そしてパラリンピック出場が決まった。岩本選手は「出合いがあったんだなと思います」と振り返る。
日本で待つ智恵子さんは「とにかくスタートして、ゴールして帰ってきてくれればいい」と愛息の無事を祈る。岩本選手は今、最終的に障害者であることを認め、ソチに送り出してくれた母に感謝する。「ありがとうと言いたい。この世界に来て良かった」。次は大会最終日の16日、距離の男子10キロフリーに出場する。その後、胸を張って母の元に帰るつもりだ。【宮田正和、ソチ岸本悠】